脳と心理と、その使い方

同じ試合を見ても、応援するチームで見えるものが変わる

選択的知覚と動機づけられた認知

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一言でいうと

激しいアメフトの試合を、両校の学生に見せる。同じ試合の、同じ映像だ。だが「どちらのチームが多く反則したか」を数えさせると、答えが真っ二つに割れた。自分の大学の反則は少なく、相手校の反則は多く見えた。人は、同じ出来事を見ても、自分の立場を通して、違うものを見ている。

論文が実際に言っていること

社会心理学の古典的な研究だ。舞台は、2つの大学(プリンストンとダートマス)の間で行われた、荒れたアメフトの試合。両チームに負傷者が出るほど激しく、どちらが汚いプレーをしたかで、両校の間に論争が起きた。

著者らは、両校の学生に、その試合の同じフィルムを見せ、反則を見つけたら記録するよう求めた。客観的には、同じ映像を見ているのだから、数えられる反則の数は同じはずだ。

だが、結果は大きく食い違った。ダートマスの学生は、自校の反則を、プリンストンの学生が数えたダートマスの反則の、半分ほどしか見つけなかった。それぞれが、相手校の反則を多く、自校の反則を少なく見た。同じフィルムから、まるで別の試合を見ているかのように、違う「事実」を抽出していた。

著者らの結論は鋭い。人は、出来事を、あるがままに受け取って、その後に意見を形成するのではない。自分の立場や関わりを通して、出来事そのものを構成している。何が「起きた」かの認識自体が、見る人の立場によって形づくられる。同じ試合は、存在しなかった。それぞれの学生にとって、それぞれの試合があった。

だから、どう生きるか

「自分は事実を、相手は偏って見ている」を疑う。

これがこの研究の芯だ。対立する二者は、たいてい、どちらも「自分は客観的に見ている、偏っているのは相手だ」と感じている。だが、この研究が示すのは、両者ともに、自分の立場を通して出来事を構成している、ということだ。だから、意見が食い違うとき、「相手が事実を歪めている」と決めつける前に、「自分もまた、立場を通して違うものを見ているのではないか」と問う。これは、自分のバイアスは見えないことの、対立場面での現れだ。

「同じものを見た」という前提を、手放す。

対立や誤解の多くは、「同じ出来事を見たのに、相手の解釈がおかしい」という思いから生まれる。だがこの研究によれば、そもそも「同じもの」を見ていない可能性がある。立場が違えば、注意を向ける先も、拾う事実も違う。だから、話し合うときは、解釈をぶつけ合う前に、「あなたには何が見えたか」を、こちらの見え方と並べて確かめる。違う事実を見ている前提に立つと、対話の入口が変わる。

AIは、こちらの立場に合う「事実」を選んで見せうる。

いまの文脈では、こう延ばせる。人はただでさえ、自分の立場に合う事実を拾う。そこにアルゴリズムやAIが加わると、こちらの好みや立場を学習し、それに沿った情報を優先的に差し出す。ダートマスの学生とプリンストンの学生が、別々の試合を見たように、立場の違う人が、それぞれ強化された別々の「事実」を見せられる。自分が見ている「事実」が、立場に沿って選ばれたものでないかを、意識的に疑う。

ここからは僕の飛躍だ

これは表題どおり「事例研究(case study)」で、特定の試合をめぐる、規模の限られた調査だ。ここから、あらゆる知覚が立場に染まる、と一般化するのは行き過ぎになる。動機や関与が強い、対立的な状況で、特に効果が出やすいと考えるのが妥当だろう。

「AIが立場に合う事実を見せる」は、この知見を今の情報環境に延ばした僕の解釈で、1954年のこの論文が述べていることではない。

それでも、同じ出来事を、人が自分の立場を通して異なるものとして構成する、という中核は、社会的認知の古典的な洞察だ。「自分は事実を見ている」という確信を手放し、違うものを見ている前提で対話すること。それがこの一本の使いどころだと思う。

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