脳と心理と、その使い方

白衣の人に言われると、人は見知らぬ他人に電気を流す

権威への服従(ミルグラム実験)

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一言でいうと

「学習実験」と称して、被験者に、間違えるたびに別室の人へ電気ショックを与えるよう指示した。相手が悲鳴を上げ、やがて沈黙しても、白衣の実験者が「続けてください」と促すと、約6割の人が最大電圧まで押し続けた。ふつうの人が、命じられれば、見知らぬ他人を傷つける行為をやり遂げる。

論文が実際に言っていること

被験者は、新聞広告で集められたごく普通の市民だ。「記憶と学習の研究」と告げられ、「教師」役を割り当てられる。別室の「生徒」(実は仕掛け人)が問題を間違えるたびに、教師はスイッチを押して電気ショックを与える。電圧は15ボルトずつ上がり、最大450ボルトまである。パネルには「危険:激烈なショック」と書かれている。

生徒役は、電圧が上がるにつれて、あらかじめ決められた反応を返す。抗議し、痛みを訴え、壁を叩き、そしてある電圧を超えると、応答をやめる(意識を失ったかのように)。教師役がためらうと、そばにいる白衣の実験者が、淡々と決まった言葉で促す。「続けてください」「実験は続行する必要があります」。

結果は、当時の予想を大きく裏切った。事前に専門家に予想させると、最後まで押し続ける人はごくわずか(1%程度)だろうと見積もられていた。ところが実際には、約65%が、最大の450ボルトまで押し続けた。多くの被験者は、汗をかき、震え、抗議し、ひどく苦しみながら——それでも、やめなかった。

ミルグラムの結論は重い。残虐な行為は、残虐な人格からだけ生まれるのではない。適切な状況——正当に見える権威と、段階的に進む手続き——が揃えば、ごく普通の人が、自分の良心に反することを実行してしまう。

だから、どう生きるか

「自分は流されない」という確信を、まず疑う。

これがこの研究の芯だ。ほとんどの人は、自分ならやめる側だと思っている。専門家でさえ、そう予想した。だが実際に押し続けたのは6割だ。だから、自分の善意や良識を、状況に対する防波堤として過信しない。むしろ、「自分もあの状況なら押していたかもしれない」という前提に立つほうが、現実に即している。この過信は、能力が低いほど自分を過大評価するのと同じで、内側の確信が当てにならない一例だ。

責任が「移った」と感じた瞬間を、警報として扱う。

被験者を押し続けさせた大きな要因は、「自分は指示に従っているだけで、責任は実験者にある」という感覚だった。責任が自分から権威へ移ったように感じると、良心のブレーキが外れる。だから、「上がそう言ったから」「言われたとおりにやっただけ」という言葉が自分の中に浮かんだら、それは危険信号だ。命令の連鎖の中にいても、行為をするのは自分だ、という一点を手放さない。

AIの指示や、システムの「そういうものだ」に、この感覚を当てる。

いまの文脈では、こう延ばせる。AIや自動化されたシステムの指示に従うとき、「システムがそう出したから」という、責任の外部化が起きやすい。権威が白衣の人からアルゴリズムに変わっても、構造は同じだ。おかしいと感じる指示に「でもそう出ているから」と従いそうになったら、ミルグラムの部屋にいることを思い出す。最終的に行為を選ぶのは、いつも自分だ。

ここからは僕の飛躍だ

この実験には、倫理面での強い批判があり(被験者に深い苦痛を与えた)、今では同じ形では実施できない。また、近年の再検討では、服従率の解釈や、被験者が実験を本当に信じていたかについて、議論がある。「65%」を、あらゆる状況に当てはまる定数のように扱うのは行き過ぎだ。

「AIの指示にミルグラムを当てはめる」は、この研究から僕が引いた延長で、1963年の論文が述べていることではない。

それでも、状況が揃えば普通の人が良心に反する行為をしてしまう、そして人はその自分を予測できない、という中核は、社会心理学の最も重い発見のひとつだ。悪を人格の問題に還元せず、状況の力を直視すること。そして「自分は違う」という確信を疑うこと。それがこの一本の使いどころだと思う。

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