脳と心理と、その使い方

ペンを咥えて口角を上げると、漫画が面白く感じた——はずだった

表情フィードバック仮説と、追試で起きたこと

一言でいうと

ペンを歯で咥えると笑顔に近い筋肉が使われ、 唇で咥えると笑顔が作れない。 この状態で漫画を読ませると、歯で咥えた群のほうが「面白い」と評価した。 表情が感情を作る、という主張の代表的な証拠として30年近く教科書に載り続けた。 ただしこの記事は、その後の話まで読んでほしい。 17の研究室による事前登録つきの追試では、効果は再現しなかった

論文が実際に言っていること

シュトラック、マーティン、ステッパーによる実験だ。 手続きの巧みさが、この研究を有名にした。

表情と感情の関係を調べたいとき、素直に「笑ってください」と頼むと、 参加者は実験の目的に気づいてしまう。気づけば、期待に沿った答えを返しかねない。 そこで著者たちは、表情を作らせていることを悟らせない方法を考えた。

参加者には「身体に障害のある人が字を書く方法を研究している」と説明し、 ペンを口に咥えたまま作業をさせる。条件は3つ。

  • 歯で咥える — 大頬骨筋(笑うときの筋肉)が収縮する
  • 唇で咥える — 口輪筋が収縮し、笑顔が作れなくなる
  • 手で持つ — 統制条件

この状態で同じ4コマ漫画を読ませ、面白さを評価させた。 結果は、歯で咥えた群がいちばん高く、唇で咥えた群がいちばん低かった。 差は統計的に有意だった。

著者たちはこれを、表情フィードバック仮説の支持と解釈した。 感情は内側から表情を作るだけでなく、表情の側からも感情に影響する。 これは情動の二要因理論自己知覚理論—— 自分の状態を自分の外側の手がかりから推測する——と同じ系譜にある。

そして2016年、17の研究室が事前に手続きを登録し、 合計約1900人でこの実験を再現しようとした。 結果は、全体として効果が見つからなかった。 一部の研究室では逆向きの結果すら出た。

シュトラック自身は、追試での撮影(参加者をビデオで記録した)が 自意識を高めて効果を消したのではないかと反論している。 その後、撮影しない条件での再検証も試みられているが、決着はついていない。

だから、どう生きるか

まず、この論文を根拠に「笑えば楽しくなる」と言うのはやめたほうがいい。 現在の証拠状況では、そこまで言えない。

そのうえで、この事例から持ち帰れるものは2つある。

1. 「身体が感情に影響する」という方向は、この1本だけの話ではない。 感情は体の状態についての脳の予想であるという枠組み、 吊り橋の上のドキドキを恋と間違えるという誤帰属、 運動が脳を変えるという結果。 身体から感情への経路そのものは、複数の系統から支持されている。 崩れたのは「ペンを咥えると面白く感じる」という特定の効果であって、 身体と感情の関係全体ではない。

2. 有名な実験ほど、追試の状況まで確認する。 この実験は巧妙で、覚えやすく、実演もできる。だからこそ広まった。 広まりやすさと確からしさは別物だ。 「教科書に載っている」は、確立された事実であることを意味しない。

そして実務的にはこう扱う。方向は採るが、大きさは採らない。 姿勢を正す、顔を上げる、外に出る。害は無く、 別の経路からの根拠もある。 だが「これで気分が変わるはずだ」と強く期待しない。

ここからは僕の飛躍だ

ここからは僕の解釈だ。この論文を100本目に近い場所で紹介するのは、 このサイトの記事も同じ運命をたどりうると書いておきたいからでもある。 1988年の時点で、この結果は正しく実施され、正しく報告された研究だった。 不正は無い。それでも28年後に、大規模な追試が別の答えを出した。

だとすれば、いま「確立されている」と思っている知見のうち、 いくつかは同じ道を通るはずだ。 発表された研究結果の大半は間違っているという 試算を、悲観としてではなく前提として受け取るなら、 取るべき態度は「信じない」ではなく「大きさを信じない」だと思っている。 方向だけ採って、効果量には賭けない。

もうひとつ。シュトラックが追試に反論したこと自体は、 科学の進み方として健全だと思う。 問題は反論の有無ではなく、どちらの主張も検証可能な形で出ているかだ。 ここは事前登録という仕組みが効いている。

AIとの関係でいうと、この種の「有名だが揺れている知見」は、 要約に最も乗りやすく、最も注釈が落ちやすい。 「ペンを咥えると楽しくなる」は一文で書けるが、 「17研究室の追試で再現しなかった」は削られる。 要約されると残るのは驚きのある一文だけという構図が、ここにも出る。

研究の限界は、この記事ではほぼ本文そのものだ。 元の実験は各群30人程度で、 小さい研究で出た効果は過大に出やすい。 現時点で言えるのは、この特定の効果には十分な証拠が無いということまでで、 表情フィードバック仮説全体が否定されたわけでもない。 決着していない、というのが正確な状態だ。

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