脳と心理と、その使い方

人が多いほど、誰も助けに動かなくなる

傍観者効果と責任の分散

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一言でいうと

その場に居合わせた人が多いほど、緊急事態で人は助けに動かなくなる。一人だけが目撃したときは、ほとんどの人がすぐ助けに向かう。だが、他にも大勢がいると知ると、動く人の割合が下がり、動くまでの時間も延びる。「自分がやらなくても、誰かがやるだろう」——責任が、人数で割り算される。

論文が実際に言っていること

この研究は、ある事件をきっかけに始まった。多くの目撃者がいながら誰も助けなかった、とされる事件だ(この事件の報道には後に不正確な点が指摘されているが、研究の問いは有効なまま残った)。ダーリーとラタネは、「なぜ人が多いのに助けないのか」を、実験で調べた。

被験者は、他の参加者とインターホン越しに議論する、と告げられる。実際には、他の声は録音だ。議論の最中、ある参加者が発作を起こしたように苦しみ出し、助けを求めて、応答が途切れる。被験者が、部屋を出て助けを呼びにいくか、その速さを測る。

操作したのは、「自分以外に何人が、この緊急事態に気づいているか」だ。ある被験者は、苦しむ人と自分の二人だけだと信じている。別の被験者は、他にも複数の参加者がいると信じている。

結果は明快だった。自分だけが目撃者だと信じた群では、ほぼ全員が、素早く助けに動いた。ところが、他にも大勢いると信じた群では、助けに動く割合が下がり、動いた人も、動き出すまでに時間がかかった。

なぜか。著者らが挙げた主因が「責任の分散(diffusion of responsibility)」だ。目撃者が多いほど、一人ひとりが感じる責任は薄まる。「誰かが動くはずだ」「自分が動かなくても」。全員がそう考えると、結果として誰も動かない。これは冷淡さの問題ではなく、状況の構造が生む現象だった。

だから、どう生きるか

「誰かがやるだろう」を、自分への警報として扱う。

これがこの研究の芯だ。人が多い場面で「自分がやらなくても」という考えが浮かんだら、それはまさに責任の分散が起きているサインだ。全員が同じことを考えれば、誰も動かない。だから、その考えが浮かんだときこそ、自分が動く側を引き受ける。緊急事態に限らず、職場やグループで「誰かが指摘するだろう」「誰かが手を挙げるだろう」と感じる場面は、同じ構造だ。人数が多いほど、自分が動く価値は上がる。

助けを求めるときは、「特定の一人」を名指しする。

裏返しの実践がある。自分が助けを必要とするとき、「誰か助けて」と全体に呼びかけると、責任が分散して、誰も動かないことがある。効くのは、特定の一人を名指しすることだ。「そこの青い服のあなた、救急車を呼んでください」。責任を一人に集中させると、その人は動きやすくなる。全体への呼びかけと、名指しは、まったく効き目が違う。

オンラインの「大勢」は、責任の分散を極限まで強める。

いまの文脈では、こう延ばせる。SNSやオンラインの場では、目撃者が桁違いに多い。困っている投稿、明らかな間違い、助けを求める声を見ても、「これだけ大勢が見ているのだから、誰かが対応するだろう」という責任の分散が、極端に働く。膨大な傍観者の中では、一人ひとりの「自分がやらなくても」が積み重なり、結果として誰も動かない。大勢が見ている場でこそ、自分が動く一人になることの意味が大きい。

ここからは僕の飛躍だ

この実験は、統制された状況での緊急事態を扱った。現実の多様な場面で、常に同じ強さで傍観者効果が起きるとは限らず、状況によっては、人が多いことがかえって助け合いを促す場合もある(近年の実地映像の研究では、介入がかなり起きることも報告されている)。

「SNSで自分が動け」「名指しで助けを求めろ」は、この知見から僕が引いた実践で、1968年のこの論文が述べていることではない。

それでも、目撃者が多いほど責任が分散し、助けが遅れうる、という中核は、社会心理学の重要な発見だ。人は状況に流されることの一つの形として、「誰かがやるだろう」を自分が動く合図に変えること。それがこの一本の使いどころだと思う。

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