脳と心理と、その使い方

人は、確率でなく「怖さ」でリスクを測る

リスク認知

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一言でいうと

人が「危険だ」と感じる度合いは、実際に死ぬ確率とは、しばしば大きくずれる。自分で制御できない、なじみがない、破滅的に見える、というリスクは、統計上の危険が小さくても、強く恐れられる。逆に、慣れていて自分で選んだと感じるリスクは、実際に危険でも軽く見られる。リスクの感覚は、確率ではなく、性質で決まる。

論文が実際に言っていること

人々がさまざまな危険(原子力、自動車、喫煙、飛行機、農薬など)をどう感じるかを調べ、その「感じ方」の背後にある要因を整理した研究だ。

専門家がリスクを、おおむね「年間の予想死者数」のような客観的な尺度で捉えるのに対し、一般の人のリスク感覚は、それだけでは説明できなかった。人の恐怖の度合いは、確率とは別の、いくつかの質的な性質に強く左右されていた。

主な軸が二つある。一つは「恐ろしさ(dread)」——制御できるか、破滅的か、公平か、自発的に引き受けたものか。制御不能で、一度に大勢が死ぬように見え、不本意に負わされるリスクは、強く恐れられる。もう一つは「未知性(unknown)」——観察できるか、なじみがあるか、科学的に解明されているか。新しく、目に見えず、影響が遅れて現れるリスクは、過大に恐れられる。

この枠組みで、人々の反応の多くが説明できた。たとえば原子力は、死者数の統計は小さくても、制御不能・破滅的・未知という性質を強く帯びるため、極端に恐れられる。逆に自動車事故は、慣れていて自分で運転している(と感じる)ため、実際の死者数が桁違いに多くても、恐怖は軽い。

つまり、人はリスクを確率で測っていない。制御感、なじみ、破滅性、公平さといった性質で測っている。

だから、どう生きるか

「怖い」と「危険」を、切り分けて考える。

これがこの研究の芯だ。強く恐れているものが、統計的にも危険とは限らない。逆に、まったく怖くないものが、実は最大の危険だったりする。派手で、制御できず、目新しい脅威は、確率以上に怖く感じる。日常的で、自分で選んでいて、慣れた脅威は、確率以下にしか怖くない。だから、リスクを判断するときは、感じる怖さをいったん脇に置いて、「実際の確率と規模はどうか」を別に確かめる。恐怖の強さは、危険の大きさの目盛りではない。

制御感が、リスク感覚を大きく歪める。

自分でハンドルを握っていると感じるリスク(車の運転など)は軽く見え、他人任せのリスク(飛行機など)は重く見える。この「制御しているつもり」は、実際の安全とは関係がない。自分が主導している行動のリスクを、過小評価していないかを疑う。逆に、他人や機械に委ねる不安が、実際の危険より膨らんでいないかも見る。

AIやニュースは、恐ろしさと未知性を刺激してくる。

いまの文脈では、こう延ばせる。目を引くのは、破滅的で、新しく、制御不能に見える脅威だ。メディアもアルゴリズムも、こうした「怖く感じる」リスクを優先的に差し出す。すると、統計的にはまれな脅威を過大に恐れ、身近で確率の高い脅威を見過ごす、という歪みが強まる。センセーショナルに恐怖を煽る情報ほど、速い情動ルートを刺激していると疑い、実際の確率と規模を冷静に確かめる。

ここからは僕の飛躍だ

この研究は、特定の時代・社会の人々を対象にした調査に基づく。どのリスクをどう恐れるかは、文化や時代で変わりうるし、「恐ろしさ」と「未知性」という二軸がすべてを説明するわけでもない。

「AIやニュースが恐怖を煽る」は、この枠組みを今の情報環境に延ばした僕の解釈で、1987年のこの論文が述べていることではない。

それでも、人のリスク感覚が確率から系統的にずれ、制御感・なじみ・破滅性・未知性に左右される、という中核は、リスク認知研究の土台だ。恐怖の強さを危険の大きさと取り違えず、実際の確率を別に確かめること。それがこの一本の使いどころだと思う。

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