脳と心理と、その使い方

「なぜそうしたか」の説明は、たいてい後づけの作り話だ

内観の限界と自己認識

紹介動画は準備中

一言でいうと

なぜその商品を選んだのか、なぜその人に惹かれたのか——人は理由を説明できる。だがその説明は、実際に自分を動かした要因を正しく捉えているとは限らない。本当の原因に気づいていないのに、もっともらしい理由を、後から作って語る。人は、自分の心の働きを、思うほど見通せていない。

論文が実際に言っていること

内省(自分の心を見つめること)がどこまで正確かを問うた、影響力の大きい論文だ。著者らは、多くの実験を横断して、人が自分の判断や行動の「本当の理由」を、しばしば取り違えていることを示した。

象徴的な例がある。店頭で、まったく同じ4組のストッキングを横に並べ、どれが良いかを選ばせる。人には位置の効果があり、右端のものが選ばれやすかった。だが、「なぜこれを選んだのか」と聞くと、誰も「右端にあったから」とは言わない。「質感が良い」「色が好み」と、製品の性質を理由に挙げる。実際に選択を左右した要因(位置)には、まったく気づいていない。

こうした例が、いくつも並ぶ。人の判断は、本人が自覚していない要因——並び順、直前に見たもの、その場の雰囲気——に影響される。ところが、理由を問われると、人は「内省して原因を見つけた」と感じて、答える。だがその答えは、実際の原因の報告ではなく、「もっともらしい原因はこれだろう」という、後づけのもっともらしい理論であることが多い。

著者らの結論はこうだ。人は、心の中身(今何を感じているか)には、ある程度アクセスできる。だが、心のプロセス(なぜそう感じ、そう判断したのか、その因果)には、直接アクセスできない。それでも、あたかもアクセスできたかのように、すらすらと理由を語ってしまう。

だから、どう生きるか

自分の「理由」を、事実の報告でなく、仮説として扱う。

これがこの研究の芯だ。「自分がこう決めたのは、こういう理由だ」と説明できても、それが本当の原因とは限らない。本当の要因は、自覚の外——その場の状況、順番、気分——にあるかもしれない。だから、自分の判断の理由づけを、確定した事実ではなく、「たぶんこうだろう」という仮説として扱う。特に、なぜか強く惹かれる/避けたくなる、というとき、語れる理由の裏に、気づいていない要因がないかを疑う。これは、自分のバイアスが内省に映らないことと、同じ根を持つ。

行動を変えたいなら、内省より「状況の要因」を探す。

自分の行動の原因が自覚の外にあるなら、内省して「なぜだろう」と考えるだけでは、うまくいかないことがある。むしろ、行動を左右している状況の要因——何が視界にあるか、どんな順番か、直前に何があったか——を、外から点検するほうが効く。気持ちを掘り下げるより、環境を調べる。

AIに「なぜ私はこうなのか」を語らせると、もっともらしい作り話が増幅する。

いまの文脈では、こう延ばせる。人はただでさえ、後づけのもっともらしい理由を作る。そこにAIが加わると、こちらの語る自己像に沿って、さらに整った「あなたがそうする理由」を提供してくれる。もっともらしさは増すが、それが本当の原因に近づいているとは限らない。自分の動機の説明をAIと一緒に磨き上げるほど、作り話が精巧になるだけ、という危険がある。理由の物語より、行動と状況の記録を証拠にする。

ここからは僕の飛躍だ

この論文の主張——内省は当てにならない——は影響力が大きい一方で、強すぎる一般化だという批判もある。内省がまったく無力なわけではなく、条件によっては、自分の状態や理由をある程度正しく報告できる。どこまで内省が有効かは、今も議論がある。

「AIが作り話を増幅する」は、この知見を今の道具に延ばした僕の解釈で、1977年のこの論文が述べていることではない。

それでも、人が自分の判断の本当の原因に気づかないまま、もっともらしい理由を語る、という中核は、自己認識をめぐる重要な洞察だ。自分の「理由」を仮説として扱い、状況の要因を外から点検すること。それがこの一本の使いどころだと思う。

シェアXで共有

関連する論文